高級腕時計 時代遅れ – 本当にそうなのか?
私が高級腕時計に初めて触れたのは、大学を卒業して社会人になったばかりの頃だった。あの頃の私は、時計なんてただの時間を知るための道具だとしか思っていなかった。
しかし、ある日、取引先の重役がふと腕を組んだ時に、その袖口からチラリと覗いた光るものが私の目を奪った。
「それ、ロレックスですか?」
重役は穏やかに微笑んで、「いや、パテック・フィリップさ。」と答えた。
パテック・フィリップ? 初めて耳にするその名前。しかし、その時計が放つ輝きは、単なるアクセサリーとは異なる重厚感を持っていた。
時代遅れの時計 – その本当の価値とは?
スマートフォンがあれば、時間はすぐに確認できる。しかも、正確無比なクォーツ時計やスマートウォッチがあれば、数百万もする機械式時計なんて不要では? そう考えるのも無理はない。
しかし、時計店で見たパテック・フィリップのノーチラスは、“時代遅れ”という言葉を一瞬で打ち消す存在感を放っていた。
「こちら、ノーチラスの最新モデルです。」
店員が手に取ると、ステンレスの冷たさが私の肌に伝わる。だが、その冷たさは一瞬で消え、まるで時計が私の体温を吸い上げているかのような感覚になる。
「これが、時を纏う感覚なのか…。」
30年経っても変わらないもの
その日は買えなかった。貯金額はノーチラスの価格には遠く及ばない。しかし、その日の帰り道、カフェで偶然出会った中年男性の腕には、古びたブレゲのクラシックが光っていた。
「その時計、素敵ですね。」
男性は穏やかに微笑んで言った。
「父親から譲り受けたものなんだ。30年使ってるけど、未だに故障しない。これが時代遅れって言うなら、俺も一生時代遅れでいいね。」
30年──機械式時計の価値は、時代を超えて受け継がれることにある。
時代遅れの覚悟 – 時計を買うということ
その夜、私は自宅でスマホの画面を眺めていた。スマートウォッチの広告が次々と流れる。通話もできて、メールも読めて、日々の活動を記録してくれる。それに比べてノーチラスは、ただ時を刻むだけ。
「でも、その“時を刻むだけ”がたまらなく欲しいんだ。」
私はノーチラスの画像をスマホの壁紙に設定した。これからの毎朝、それを見て自分に言い聞かせる。
「時代遅れでいい。いつか、あのノーチラスを手に入れる。」
30年後、その時計がどんな時を刻んでいるのか──その答えは、自分の人生次第だ。
時計を纏う覚悟 – 価格以上の価値
次の日、私は再び時計店の前に立っていた。昨日のノーチラスの感触が、まだ手のひらに残っている気がしてならない。
「いらっしゃいませ。」
店員が微笑んで迎えてくれる。その笑顔は、まるで昨日の私の戸惑いを見透かしているかのようだ。
「今日はまた見に来られたんですね?」
「ええ。でも、まだ手に入れるには早すぎるかな。」
そう言いながらも、私は目線をショーケースに向ける。そこにはノーチラスが、昨日と変わらぬ輝きを放っている。
数字では測れない価値 – 受け継がれる時間
ふと、隣のショーケースに視線を移す。そこには、アンティークのパテック・フィリップが鎮座している。
「これは?」
「1960年代のノーチラスです。お父様から息子さんへ譲られたものを、息子さんが再び当店に預けてくれたんです。」
そう言いながら、店員はその時計を丁寧に取り出して見せてくれた。
「お父様が30年間大事に使われた時計で、今は息子さんの手元にあります。これが、パテック・フィリップの真価です。」
30年──またしても、30年という言葉が胸に響く。
時計を手に入れる覚悟 – 今できること
「その夜、自宅で私は通帳を見つめていた。残高は確かに少ない。しかし、この少なさが今の自分の価値というわけではない。
『時間をかけてでも、いつか手に入れる。』
「ノーチラスの針が動くたびに、自分の目標が少しずつ形になっていくように思えた。」
「その夜、ノーチラスの針の音が耳の奥で静かに響いていた。
時代遅れでいい。だが、この時代遅れの時計を纏う日まで、俺の時間を積み重ねていこう。」
長い道のり – 目標に向かう日々
それから数ヶ月が過ぎた。貯金額は順調に増えているが、ノーチラスの価格にはまだまだ遠い。
ある日、カフェで仕事をしていると、隣の席に座った若い男性が目に入った。彼の腕には、ピカピカのアップルウォッチが光っている。
「お兄さん、その時計カッコいいですね。」
声をかけると、彼は満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます!これ、新しいモデルなんです。電話もできるし、音楽も聴けるし、天気もわかる。すごく便利ですよ。」
便利か。確かに便利だ。ノーチラスにはそんな機能は一切ない。
「でも、その時計…10年後も同じ価値を持ってると思う?」
彼は一瞬キョトンとした顔をした。
「うーん、まあ次のモデルが出たら買い替えますかね。」
そうか、買い替えか。時計の価値観が根本的に違う。
時代遅れを纏う – 自分だけの時間
その夜、私は再び時計店に向かった。店内には相変わらずノーチラスが輝いている。手に取ることはできない。でも、その時計がそこにあることはわかっている。
店員が近づいてきた。
「お久しぶりです。貯金、順調ですか?」
「ええ、まだまだですけど。」
店員は微笑んで言った。
「焦らなくて大丈夫ですよ。ノーチラスは30年後もここにありますから。」
その言葉に、胸が熱くなった。時間はかかるかもしれない。でも、それでいい。ノーチラスを手にする頃には、きっと今よりもっと価値のある時間を刻んでいるに違いない。
「時代遅れの時計でもいい。むしろ、時代遅れだからこそ価値がある。」
そう呟きながら、私は店を後にした。ノーチラスの針が静かに動く音が、心の中で鳴り響いていた。
エピローグ – 時を纏う者として
それからさらに1年が経った。
貯金額は順調に増え、ノーチラスが見えてきた頃、父親が突然私の部屋にやってきた。
「お前、最近なんか頑張ってるみたいだな。」
父の腕には、見覚えのない古びた腕時計が巻かれている。
「その時計、前から持ってたっけ?」
父は照れくさそうに笑いながら言った。
「これか?お前が生まれる前に買ったやつだよ。機械式時計なんて時代遅れだろ?でも、不思議と手放せなくてな。」
私はその時計をじっと見つめた。ケースには無数の傷が刻まれている。だが、その傷ひとつひとつが、父の時間を語っているようにも見えた。
「父さん、これ俺に譲ってくれないか?」
父は驚いた顔をした。
「え?でも、お前、ノーチラスを買うために貯金してるんだろ?」
「そうだけど、その前に…時代遅れでも、父さんの時間を纏ってみたいんだ。」
父は静かに時計を外し、私の腕に巻いてくれた。冷たい感触が伝わる。
その夜、私は父の時計を見つめながら思った。
「ノーチラスを手に入れる日が来るまで、この時計と一緒に時を刻もう。」
時代遅れの時計。でも、それは確かに父の時間を刻み続けてきた。
私はその重みを感じながら、これからの時間を大切にしようと心に誓った。